ようおいでたなもし 松山俳句通信【第40回】

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2023.06.23

伊予吟会 宵嵐さんから40回目となります「松山俳句通信」が届きました!今回のお話は、歴史を感じられる柳井町の「アーケード」です。

 

柳井町商店街

休日、柳井町商店街をぶらぶらと歩くことが増えました。ここは松山市の中心部から少し南に位置していて、アクセスの良さと、個性的なショップや工房の出店により、静かなブームが来ている場所です。

2019年には、経済産業省の「はばたく商店街 30選」に選ばれており、歩行者と自転車のみ通行できる安全性の高さに加え、カラー舗装によるビジュアル化で、更なる差別化が図られている街なのです。
歴史を辿ると、昭和初期、旧松山市以南の住民が用事で中心部を訪れ、帰りに柳井町で生活物資を購入して帰るケースが多かったようです。その後も柳井町は、旧松山市の「南の玄関口」として発展しますが、昭和20年の松山大空襲で甚大な被害を受け、焼け野原からの再出発を余儀なくされました。しかし立地の良さから比較的順調に復興し、中心商店街と同じくアーケードも建設されました。

 私は高校の時に、柳井町のアーケードに百円ラーメンを食べに来ていた記憶があります。就職してからも、繁華街で遊んだ後は、しばしばこのアーケードを通って帰宅していました。しかしモータリゼーションの進展とロードサイド店舗の活況で商店街に逆風が吹きはじめます。徐々に店舗数が減り始め、2005年には老朽化によりアーケードが撤去されました。
今は前述のとおり、落ち着いた雰囲気の個性的な街なみに生まれ変わっていますが、市街地の栄枯盛衰と変遷の縮図がこの街だと思うのです。そんな柳井町を歩いていて、偶々句碑を見つけました。

涼しさや西へと誘ふ水の音  内海淡節

 内海淡節は松山藩士で、江戸末期から明治初期に活躍した俳人です。この句の「西」は西方浄土を意味しており、淡節の辞世の句となりました。明治7年に句碑が建立されており、正岡子規の出現以前から松山は俳都だったことが窺えます。

柳井町地区に商店が集積し始めたのは大正末期と言われています。淡節が、そして子規が、歩いた柳井町はどんな街なみだったのでしょうか。興味は尽きません。