永田和宏 ー 歌の中に時を刻む(第1回)

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2023.06.30

 

NHK学園短歌講座は、おかげさまで昨年10月で開講40周年を迎えました。記念して、講座監修の歌人・永田和宏先生に、短歌と時をテーマに連載をお願いいたしました。

 

 

わたししかあなたを包めぬ

 

詠んだ当初はそれほどでもなかった歌が、時間の経過とともに、とても大切に思われてくるということが往々にしてあるものです。


わたししかあなたを包めぬかなしさがわたしを守りてくれぬ四
十年かけて             河野裕子『蟬声』

 

河野裕子さん

河野裕子さん

『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)

『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)

 

この一首が身に沁みて感じられるようになったのは、最近『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)として出版された連載を書いていた時であったと思います。この本では私の生い立ちから始まって、河野裕子と出会い、結婚する直前までの、過剰に激しい二人の恋の軌跡を書いていますが、そのなかで、彼女の日記や手紙を読み直しつつ、「わたししかあなたを包めぬかなしさ」が、単に歌の修辞のレベルを超えて、彼女の生涯変わらぬ思いであったことを強く実感したのでした。

 


「母を知らぬわれに母なき五十年湖
(うみ)に降る雪ふりながら消ゆ」(『百万遍界隈』)

 

というのは私の歌ですが、幼い時に母を亡くし、その顔さえも知らない私のさびしさのすべてを包みこもうとし、それができるのは私しかいないというのが河野裕子の思いでもあり、矜持でもあったのだと思います。

 

 しかし、この一首は、そんな私への思いこそが、実は自らの「四十年」を守ってくれたのだと詠っています。どんなときにも常に私をいちばん気遣ってくれていたのが河野裕子であったことは、身に沁みて感じていましたが、いっぽうでそのことこそが彼女を守っていた、支えていたことを、その死の後、ずいぶん時間が経ってから知ることになりました。そんな迂闊さを詫びる思いとともに、この一首が私にとってかけがえのない歌とも思えてくるのです。

 

 

 

 

永田 和宏(ながた かずひろ)NHK学園短歌講座監修
昭和二十二年滋賀県出身。
歌人・「塔」選者・歌会始選者・「朝日歌壇」選者。
京都大学名誉教授/JT生命誌研究館館長。

歌集『饗庭』『風位』『夏・二〇一〇』『置行堀』など。歌書『あの胸が岬のように遠かった』『新版作歌のヒント』『近代秀歌』『現代秀歌』『知の体力』ほか多数