【俳句コラム】子規庵より(1)

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2022.08.09

歌人でNHK学園短歌講座講師、そして「子規庵」理事長と、獅子奮迅の勢いで活躍されている、さいとうなおこさんから届きました「子規庵より」。わずか35年の生涯の中で近代文学史上に大きな足跡を残した、正岡子規について、改めて学ぶきっかけになることでしょう。

 

根岸・子規庵ご案内

 

東京の山手線で最も乗降数の少ない駅、鶯谷駅北口から五分歩けば子規庵に着きます。

道を知らない場合は、駅近くの交番で聞くか、電話をかけてください。書道博物館なら分かる、という方はその前にある家が目的地です。

うっかり南口に出ると大変、タクシーの運転手さんに「子規庵ってお蕎麦屋さん?」と聞かれた人もいるとか。           

 

知る人ぞ知る、それが正岡子規の旧居、子規庵です。

家を囲むブロック塀がぱっとしないので、或る落語家の方にこれでは通り過ぎたくなるよ、と愛情を込めて意見されましたが、玄関の格子戸をゆっくり開けて入るとほっとされることでしょう。ここは「令和」ではなく、「明治」なのです。こんな簡単にタイムスリップできる空間は他にないかもしれません。

 

上がると昔風に二畳の玄関間、続いて八畳の客間があり、縁側の向こうの庭の緑が目に飛び込むと、ああ来てよかった、と誰かの呟きがもれます。その他の間取りは三畳(母の部屋)、四畳半(妹の部屋)、六畳(子規の病室兼書斎)、小さな常設展示室(台所)、これですべてです。六畳のガラス戸越しに、夏から初冬まで棚にぶら下がる糸瓜や鶏頭を見ることができます。畳に寝ころび、子規が愛した風景を追体験してみましょう。

 「おばあちゃんの家みたい」。

遠い記憶の場所と重なるのかもしれません。

2019・秋

2019・秋

正岡子規の母 八重さん

 

ところで、正岡子規の母、八重さんをご存じですか。子規は五歳で父を亡くしています。

江戸時代の後期、弘化二年に生まれた八重さんは、松山藩士正岡常尚と結婚し、死別した後、子規と律の二人を育てました。子規の本名は常(つね)規(のり)ですが、幼名の升(のぼる)から「のぼさん」、妹の律を「りーさん」と呼んでいたそうです。我が子を一人の人間として尊重していたのであろうその穏やかな声音までふと想像してしまいます。

 

この時老母に新聞読みてもらふて聞く。

振仮名をたよりにつまづきながら他愛もなき講談の筆記抔(など)を読まるるを、我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。

「病牀(びょうしょう)六尺」(明35・7・31)より

 

 

 うつらうつらしながらのひととき。すでに子規の脊椎カリエスは末期となり、頻繁に襲う激痛をおさえるモルヒネを飲んだ後の様子です。新聞「日本」にこの文章が載った日、命はあと五十日に迫り、明治三十五年九月十九日未明、三十四歳十一か月で亡くなりました。東京市下谷区上根岸町(当時)、加賀前田家が大家の二軒長屋の一件で家族と暮らした八年七カ月の間に多くの文学作品が生まれました。ここに落ち着いたのは、十六歳で松山中学を中退して十年後のことです。政治家になりたいと上京以来、子規庵は十四度目の転居先でした。

平成二十一年冬、NHKテレビであしかけ三年にわたる「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)が放映されました。反響は大きく、ドラマの舞台の一つである子規庵もさまざまな年代のお客様が増え、随分賑わいました。

 

 

あれから十三年、コロナウイルスの感染拡大によって子規庵は長くお休みしています。ウイルスの情況により、時々特別公開として庵を開けますと、HPを見たというお客様が来られます。私たちボランティア活動で庵を維持する者にとって嬉しいのは、「ああ、やっとここに来られた!」という声です。

 今年は子規没後百二十年なのでささやかでも何か行いたいと九月の「糸瓜忌特別展示」の公開を願っていますが、現在また感染が拡がっているため検討中です。決まりましたら、HPでご報告いたします。是非いらして下さい。修復された文庫蔵もお待ちしています。

 

さて、八重さんですが、子規没後も律さんと子規庵で暮らし、昭和二年までお元気でした。享年八十二歳。私のもっとも敬愛する女性の一人です。

 

さいとうなおこ
歌人・「子規庵」理事長・
NHK学園短歌講座講師

1943年、朝鮮生まれ。45年、馬山より博多港へ引き揚げる。京都、福岡県、大阪府を経て、埼玉県所沢市へ。73年、「未来短歌会」に入会。近藤芳美に師事。NHK学園短歌講座専任講師として、開講より長く講座運営に携わる。現在、歌誌「未来」選者、一般財団法人子規庵保存会理事長。