ようおいでたなもし 松山俳句通信【第22回】

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2020.10.08

松山市の伊予吟会 宵嵐さんから、第22回「松山俳句通信」が届きました!

7月には、松山青年会議所さん主催で、夏井いつき先生と皆さんでWEB句会で俳句づくりを楽しまれたようです。さすが俳都、松山です!

今日は、気骨のある「きゅうべえさん」のお話しです。

 

 

きゅうべえ通り

松山市南部の古川地区は、私の生まれ育った街の西隣にあります。最近出来た東西の道路には「きゅうべえ通り」という名前が冠されました。

寛永六年は、旱魃にウンカの異常発生が重なり、松山南部が未曾有の凶作となった年でした。庄屋の今村久兵衛さんは検見と減租を代官所に求めたものの聞き入れられず、ウンカ害の他地域への波及を防ぐため、やむなく全ての稲を焼却。その責任を一身に負って磔の刑に処されたとのことです。

その恩義を地域の人はずっと覚えていて、400年の時を越えて顕彰の石碑が立ったのです。子規が松山に生まれる200年以上前に起きた悲劇でした。

さて、現代のきゅうべえ通りを歩いていると、歩道に掲示されている俳句を見つけました。小学生らしい素直な句が随所に飾られています。

反対車線に回り込むと、同じ掲示方法で地域の人たちの俳句が飾られており、その中には子規の句も展示されていました

 

送られて一人行くなり秋の風    子規

子規の上京にあたり、松風会のメンバーが送別会をしてくれた時の句ですね。

小学生から地域の有志まで、松山の人の俳句熱と層の厚さを見せつけられたような気がします。

400年前に命をかけて地域を守ってくれた人がいました。明治時代には俳句の革新に貢献した俳人がいました。

先人がもたらしてくれた平和と文化が今の松山を育んでいるのですね。