
俳人として、また研究者、指導者として精力的にご活躍されている神野紗希先生。今回は、若手俳人のトップランナーにお話をおうかがいしました。
神野紗希(こうの さき)
1983年愛媛県生まれ。現代俳句協会青年部長。2002年芝不器男俳句新人賞 坪内稔典奨励賞受賞。明治大学・玉川大学・聖心女子大学講師。NHK学園国立本校オープンスクール講師。「小島健と神野紗希のネット俳句」講座で講義を担当。句集に「星の地図」「光まみれの蜂」。
俳句は人間の想像力を信じている詩型です。
――神野先生は俳句甲子園のご出身でいらっしゃいます。
高校時代に、放送部の取材でたまたま俳句甲子園を見に行ったのがきっかけでした。
それまでは、教科書に出てくる俳句って、「古池かあ・・・法隆寺かあ・・・」なんて思っていたんですが、俳句甲子園で高校生の俳句を見て、「これも俳句なのか!」とびっくりしたんです。
「いわし雲進路相談室の窓」という句を、今でもよく覚えています。
その句を見たとき、「この句の中に私がいる」と思ったんですね。
人の俳句の中に自分をみつけた喜び。それが一番はじめの俳句体験です。

――私も神野先生のこの句を拝読したとき、なぜか「自分がここにいる」という感覚を味わいました。記憶が呼び起こされるといいますか、なんだか不思議な体験でした。
十七音だけで、鮮やかに心と景色がぜんぶ再現されるって、本当にすごいことなんです。
俳句は、人間の記憶能力や想像力をすごく信じている詩型だと思います。
情景を丁寧に説明すればするほど満足感はあるのかもしれないけれど、俳句は読者を信じているし、人間を信じている。
だから十七音。そういう表現なんですね。

▲月に一度、東京・国立本校オープンスクールで教えていらっしゃる神野先生。真摯でありながら親しみやすい授業は、受講者のみなさまに大人気です。
――神野先生の作品は、日常のすぐとなりにある言葉で表現されている印象がありますが、それはポリシーなのでしょうか。
自然にそうなっているのでしょうね。私は、とにかく「好きだ」と思うものを詠むのが、いちばんいいと思っていて。
たとえば、すごく美しいものとか仏像とかが好きなら、それに詳しいわけだから、興味があるものを詠めば他の人には詠めないものができると思うんです。
私の場合は日常が好きで、周りの人のことも好きで、いま生きている時代のことも大事にしたいと思うから、たぶん結果的にそういう俳句になっているんですね。
――神野先生は以前、「ありふれた言葉を組み合わせて作品になった瞬間は魔法のようだ」と書かれていました。私も魔法ならかけてみたい!と思うわけですが。
もちろん言葉に魔法をかけるということもあるでしょうし、自分の生活にも魔法がかかるような感覚です。
たとえば「ただの風だなあ」とか「ただの街路樹だなあ」と思っていると、毎日の通学や通勤ものっぺりとした感じかもしれません。
けれど、俳句を知って、季語を知ると、「あ、夏の風だ」とか「風薫るってこのことか!」と思ったり、街路樹も「これがはなみずきか、こんな白い花だったんだ」と気づいたり。
そういうふうに毎日がちがって見えてきて、「じゃあ、明日は何があるかな?」と生活にも魔法がかかって、日常がキラキラとちょっと輝いてくるんですね。
――自分の周りの人や物との距離をはかる作業でもある気がします。
いろんなものを親しく思ったり、いろんなものといっしょになったり、気持ちを重ねたり、ゼロ距離になっていくというか。蟻の気持ちになったりもします。
なにか特別な美しいものが俳句になるというよりも、日常のなんでもないことのほうが意外と季節が感じられることが多いんです。
季節って日常ですよね。いつも感じているからこそ変化がそこに生まれるわけで、たまたま見つけたものは、それは特別なものなんだけれど、でも、生きている日常という帯の時間のなかで変化するものを見つけられたら、それがいちばん「自分の季節」ということなんだと思うんです。

俳句は古くて新しいコミュニケーションツールなのです。
――一方で、俳句は季語があって定型があってと、素人にはちょっとがんじがらめにも思えるところもあります。
俳句ってルールがいっぱいあってたいへんそうだな、と思われるかもしれませんが、定型や季語はむしろ補助ツール、道具なんです。
――道具はそろっているわけだから、自分が何かを体験してきて、俳句という「かたち」に向かえば何かができると。
そうなんです。
そして、「わたしはこんなものを見てきたんですけれど、どうですか?」と人に伝えるコミュニケーションツールの要素もあると思っています。
食べ物のこととか、ちょっと見つけた景色のこととか、「いいな」と思ったことを人と共有したい。
「これ、よくないですか?」「こんなのあったよ!」と共有できることがあればすごくうれしいですし、人のそういう思いを知ることも楽しいですよね。
――俳句はひとりで詠むというイメージがありましたが、双方向だったとは! 古いのに新しい感じが面白いですね。
ひとりでつくっていても、たとえば歳時記を見ていると例句があります。昔の人が詠んだ句を見て、「俳人 橋本多佳子は、このとき何を考えていたのかな?」と作者と対話もできる。
もちろん、通信講座の添削でのやり取りもそうです。句会という場では、お互いの句の感想を述べ合うことができますし、年賀状などにちょっと一句添えたり、そういう手紙をいただくとうれしいですよね。
俳句は一方通行じゃなく相互的なもの。読者として作者と同じ立場になれるし、作者として読者と同じ立場にもなれるのです。

▲2年前に母となった神野先生。出産時も手術台の上で一句詠まれたそうです!「子育て中、夜泣きがつらくても、頭で夜泣きの俳句を作ればつらいだけじゃ終わらない。句会で『この気持ち分かります』と言われたら、あの日の私が救われるような気がするんです」
十七音の前ではみんな平等です。
――いま「人生100年時代」と言われています。神野先生が教室や句会で教えていらっしゃる受講者の方も、年上の方が多いのではないでしょうか。
年齢は関係なく、いっしょに俳句を楽しんでいる仲間のみなさんだと思っています。
俳句のいいところは「名前がないこと」です。
句会では作者名をはずした状態で選句して、最後に「これは誰の句ですか?」となるわけです。
年齢や性別がフラットに、今日始めた人も、三十年やっている人も、同じ土俵に立つというのが俳句の平等なところです。
――意外です。長くやっている方のほうが、お上手そうですが。
初心者とかベテランとか、「何歳」ということが関係ない世界だと思います。
始めたばかりの方も、長く続けていらっしゃる方も、次の一句にいい句がつくれるかどうかは誰にもわかりませんよね。
逆に言えば、初心者の方でも、素晴らしい句をつくる可能性があるということです。
十七音の前ではみんな平等です。だから何歳でもどうぞ学んでください。
(インタビューは2018年4月のものです。)