コラム|NHK学園 生涯学習通信講座

ようおいでたなもし 松山俳句通信【第51号】

作成者: Admin|2026.8.03

お久しぶりの「松山俳句通信」です。今回は、松山の俳人・石田波郷について伊予吟会宵嵐さんが紹介してくれます。

※「おいでたなもし」とは、松山市の方言で「いらっしゃい」の意味です。

石田波郷の足跡を追って 

松山市中心部から一番町通りに沿って東に向かって歩くと、松山東高校に差し掛かり、更に東進すると愛媛大学教育学部附属中学校に至ります。どちらも私の母校であり、特に附属中学校の銀杏並木の黄葉とビビッドな悪臭は卒業生全員の記憶に残っているのではないでしょうか。当時、東側の塀を乗り越えて昼食のパンを買いに走っていたことを思い出します。正門からぐるりと回るよりも近道だったのですね。パン屋さんがあったあたりには、新しい道路である環状線が通っていて当時の面影は残っていません。そして、丁度私たち生徒が乗り越えていた辺りの少し北側に新しい句碑が建立されていました。

なみだしてうちむらさきをむくごとし
人はみな旅せむ心鳥渡る  石田波郷

後に現代俳句協会を設立し初代代表となった石田波郷は、松山市の垣生地区の生まれです。附属中学校や付属小学校に関係はありませんが、松山東高校の前身の松山中学に通っていました。この頃に後の俳優大友柳太朗に誘われて、俳句を始めたエピソードは有名です。水原秋桜子主催の俳誌『馬酔木』への投句をきっかけに上京して、ついには句誌『鶴』を創刊して主宰となる生き様は一途としか言いようがありません。

その後、結核を患った波郷は、先端的治療を受けるため国立療養所清瀬病院(現・東京病院)に入院します。この時期に作った療養俳句の句集「惜命(しゃくみょう)」が彼の代表作となりました。

 

実際にこの句集を手にしてみると、壮絶な闘病生活が垣間見えます。だから、所用で上京した際に、実際に清瀬病院跡地を訪れてみました。


令和の世の中でも自然豊かな街並みを維持しており、また駅前の住所が偶然にも「松山」であることから親近感を感じました。波郷は、ここで闘病生活を送り、清瀬中学校の校歌を作詞するなど地域と深い関わりをもちながら、清瀬の地で亡くなります。しかし、没後もこの地で石田波郷俳句大会や石田波郷新人賞が開催されるなど、俳句と療養所の町として清瀬は有名になりました。


清瀬の地を訪れたことで、私の中で点と点がつながったように思います。波郷が最期を迎えた清瀬の駅前に「松山」という地名が遺されているのは、単なる偶然ではないように思えてなりません。故郷を離れ、病と闘いながらも一途に言葉を紡ぎ続けた波郷の魂が、時空を超えて引き寄せた奇跡のようでもあります。清瀬で波郷の面影に触れた今、母校の傍らに佇む句碑は、これまでとは全く違う輝きを放って見えています。それは、故郷を愛し、同時に故郷から遠く離れた地で生きた先達からの、静かなエールなのではないでしょうか。


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